07th Expansion Wiki
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The Inhuman Teacher (人ならざる教師 Hito Narazaru Kyōshi) is a Higanbana no Saku Yoru ni short story that was released as a booklet at the "Higurashi no Tsudoi 7" event on November 20, 2011.

Transcript

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彼岸花の咲く夜に
人ならざる教師

07th Expansion


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 小学生の頃。……先生に許せないことがあった。
 誤解ないように言っておくが、特別、悪い先生だったわけではない。
 授業もわかりやすく丁寧だったし、理路整然としていたし、誰にも公平だった。

 クラスには40人からの生徒がいるのだ。中には従順な生徒もいれば、反抗的
な生徒もいるだろう。
 しかし、その両者を贔屓せず、共に公平に扱う、良い先生だった。
 そう。公平に扱う、良い先生だったのだ。
 先生にとってクラスには大勢の生徒がいても、その大勢の生徒にとっては、
先生は一人しかない。
 公平なのは当然なのだ。

 そして、先生に体は一つしかなくて、時間だって一日24時間しか存在しないな
らば、必然的に生徒ひとりひとりに付き合うことの出来る時間は、公平に等分
されるべきだろう。
 しかし、……クラスには要領の良い生徒がいるように、要領の悪い生徒もいる。
 1を教えれば10を理解できる生徒がいるように、10を教えてやっと1を理解す
る生徒もいるのだ。

 そのような、玉石混交のクラスにおいて。全員に等しく、1しか教えないという教
育は、果たして本当に“公平”なのだろうか……?
 確かにそれは公平だろう。全員に等しく、当分の労力を割いて指導している。
 上辺だけを見れば、確かにそれは公平だ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 しかし、私はそれは違うと思っていた。

 真の公平とは、教えた時間が等分なことではない。
 生徒たちが理解した内容が、等分であるべきなのだ。
 1を教えれば10を理解できる生徒には、1を教えれば充分だ。
 10を教えて1しか理解できない生徒には、ならば100を教える労力が必要な
はず。
 その結果、クラスの全員が10を理解し、生徒全員に等しく教育を与えたこと
になるのだ。


 ………なのに、偽りの“公平”が、先生たちに充満している。
 要領の良い従順な子に、すでに充分であるはずなのに時間を割き。
 まだまだ接してあげるべき要領の悪い子に、公平の名の下にそれ以上の時
間を割こうとしない。

 そして当然の結果として、学力格差が起こり、クラスには出来る生徒と出来な
い生徒の階層が生まれる。
 それはいじめの温床ともなるし、出来る生徒の増長や、出来ない生徒の悲観
など、情操教育上もまったく為にならないことは明白なのだ。

 先生とは、“公平”でなければならない。
 それは、生徒ひとりひとりに対する労力が公平であることを意味しない。
 生徒ひとりひとりが理解した、成果において公平であるべきなのだ。
 先生は、生徒ひとりひとりの個性を読み取り、それぞれにあった対応をすべき
なのだ。


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 もしそれが否定されるならば、先生なんて存在は必要ないはず。
 そうならば、全てのクラスにテレビを置いて、偉い先生の講義の映像を垂れ流
せば良いことになってしまう。

 ……しかし、日本の教育はそうはなっていない。
 教室単位に生徒を分け、……各クラスに、先生という名の、人間を配置している。
 それこそが、……自分の考えが間違っていないことの、証なのだ……。
 小学校の時から、ずっとずっとそう思っていた。
 だから、自分の職業として学校の先生という選択肢が現実味を帯びた時、
……思った。
 自分は、本当の意味で公平な、本当の先生になりたいと。


 そんな志を胸に、先生と呼ばれる生活をスタートし。
 中堅というにはおこがましいが、もう新米とは呼ばれたくない程度には教師生
活を重ねた。

 そんな中、出会った少女が彼女、氷室恵美(ひむろ えみ)だった。
 恵美は、それまで私が受け持った生徒たちの中でも群を抜いて、……マイ
ペースと言おうか、とにかくスローペースな子だった。
 良く言えば、俗世に染まることなく、清らかで大らか。おっとりとしていてやさしい
性格。
 家が裕福なこともあってか、服装のセンスも悪くなく、いつも身綺麗で清潔。
 少なくとも、それだけを見れば、非の打ち所のない、まさに天使か妖精のように
可憐な少女だった。


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 しかしながら、彼女のスローペースぶりは、それら長所を全て相殺してなお余
りあるものだった。
 おっとりしていると言えば聞こえはいいが、彼女の場合は、それに加えて要領
まで悪い。
 物事の飲み込みや理解も悪く、常識で考えれば絶対に誤解するわけないよ
うな間違いを平気でする。
 当然、応用も効かず、さらにその上、暗記も苦手とあって、成績は本当に惨め
なものだった。

 そのため、恵美はこれまでの担任たちに、ことごとく愛想を尽かされてきた。
 別に毛嫌いされていたわけではない。
 スローペースが過ぎて団体行動を乱したり、ひとりだけ忘れ物をしたりという
形で足を引っ張りはするが、少なくとも悪意はない。
 反抗期真っ盛りで落ち着きゼロの男子グループに比べたら、彼女の存在など
まさに人畜無害に等しい。


 その結果、歴代の担任たちは、恵美を無害な落ち零れとして扱い、……無視し、
関心を持たなかった。
 氷室恵美は、良く言えば手の掛からない、……悪く言えば、いてもいなくてもどう
でもいい生徒だったのだ。
 私は、彼女のような子の面倒を見ることこそ、自分の使命だと感じた。
 確かに面倒の掛からない子は、教師にとって便利だ。その分、手間が掛から
ないのだから。


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 成績の良い子に対してはそれでも許されるだろうが、成績の悪い彼女には、
そうであってはならない。
 確かに彼女は要領が悪く、……教え子として見るには、あまりに面倒臭い子だ。
 両親も、性格や気立て優先であまり成績にはこだわらないらしく、通信簿の数
字を三者面談の議題にされることもない。
 そんな子だからこそ。
 私たち教師は、“公平”に見てやらなければならないのだ。
 私は氷室恵美の面倒をしっかり見ようと、誓ったのである。


「…………ん~……。わからないです……。」
 さっきの問題が解けて、どうして次の問題が解けないのか……。
 眩暈を覚えながらも、私はもう一度、ゆっくりと教える。
 恵美の中の、緩やかな時計と、なるべく近くなるようにしながら。

「いいかい。これもさっきの問題と何も変わらないんだよ。……ほら。こことここを
比べてみて。」
「………ん~……。……ん~…?」
 所謂、馬鹿な子なんだと思う。
 しかし、頭が特別悪いわけではないのだ。

「あ~……。あ~! これ、……同じなんだぁ!」
「そうそう、数字が変わったから面食らっちゃったと思うけど。落ち着いて比べて
みれば、何も変わらないんだよ。」
「あ~、あ~あ~!!」
 恵美の頭の中の万年雪が、初めて溶け出したらしい。
 彼女は上機嫌に、あ~あ~と連呼しながら、さらさらと問題を解いていく。


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 その後の問題は、もう間違わないし引っ掛からない。
 一問を解くごとに、それが合っていることを私の顔で確認し、……彼女の中の
不安が、自信や誇りに昇華されていくのを感じた。
 恵美は見事に、ドリル帳の1ページを完了させる。
 もちろん、満点でだ。
 そこに至るまでの紆余曲折は、……確かに他の生徒たちに比べると、あまりに
膨大だった。
 これが授業時間中の出来事だったなら、他の担任たちも苦労はしなかったろう。
 しかし、今日の快挙を得る為に、私たちは連日、放課後に居残りをしていたのだ。
 最初の内は彼女も、なぜ自分だけ居残りをさせられるのか、少し不満げだった。
 私も、職員室ですべき煩雑な雑務を圧迫しての、特別授業だった。

 しかし、それが今日、ようやく結実したのだ。
 私と恵美は手を打ち合わせて喜び、確実な学力アップの手応えを実感し合った。

「ありがとー、先生ぇ、ありがと~!!」
「よくやったな、恵美くん。な、やれば出来ただろう?」
「……うん。先生ぇの言う通りだった……。……恵美は馬鹿だから、絶対に出来る
わけないって思ってたのに……。」

 可哀そうに。……彼女が、自分のことを馬鹿だと思い込んでしまったのは、歴代
担任たちの放任のせいだ。
 確かに、恵美に物を教えるのは楽ではない。
 彼女が面倒事を起こさないのをいいことに、彼らはずっと無視を決め込んできた。


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 そんな、見過ごしがあってはならない。
 彼女のような子を落ち零れにしないことこそ、自分の使命なのだ。

 彼女は決して、頭が悪いわけではない。
 教え子に、彼女に合ったペースと時間がいる。それだけのことなのだ。
 なのに、面倒を嫌ってそれを逃げ、彼女に落ち零れを強いるのは、教師として
断じて間違っている。

「勉強は楽しいだろう? 学んだことが、はっきりと評価に表れて面白いだろう?」
「うん。…勉強なんて大嫌いだったけど、……ちょっぴりだけ……、楽しいかなぁ~
って、……思えたかな……。」
 恵美も、勉強でこんな充実感を覚えたのが初めての経験だったらしい。
 胸の内をくすぐる初めての感触に、顔がほんのり上気していた。

「今日で一応、最初に約束した放課後授業はおしまいだが。……明日からはしっ
かり自分で、家で予習復習が出来そうか?」
「ん、……………ん~………。」
 恵美の上機嫌が、みるみる萎んでいく。
 まだ、自分ひとりでやっていける自信には至っていない様子だ。
 ここで溜め息をついてはいけない。ようやく彼女が勉強の楽しさを実感できた
のだ。

「……もし、恵美くんがもっと頑張りたいと思うなら。明日以降も、放課後授業を
続けてもいいが、………どうする?」
 本音を言えば、放課後に毎日時間を取られるのはかなり痛い。
 彼女の勉強を見るようになって以来、帰宅は連日、深夜になるようになって
しまった。


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 ……恵美が、もう自分ひとりでも頑張れると言ってくれるなら、それまでにする
つもりだ。
 しかし、彼女は破顔しながら言った。

「もっと、……頑張りたい……。」
「……頑張れるのか?」
「うん。……先生となら、……がんばれる。」
「毎日、放課後の居残りでいいのか? 友達と遊ぶ時間もないだろう?」
「……私には友達なんていないし~。……えへへ……。」

 失言してしまった。
 その余りのスローペースぶりに、クラスメートたちは彼女に、奇人の烙印を押し
てしまっている。
 幸いにも身綺麗だったので、いじめられっこにまでは転落しなかったが、クラス
の除け者であることには間違いない。
 そんな彼女が、クラスはおろか、近所にも友達がいないことは、想像に難いこと
ではなかった。

「私は、……のろまで馬鹿だから。……友達も誰もいない。……私が話し掛けて
も、みんな嫌がってどこかへ行ってしまうし。……お父さんもお母さんも、……い
つも忙しいって言って、私の話を聞いてくれないし……。……………………。」

 恵美の笑顔が、辛くて見ていられない。
 しかし、そんな笑顔が、たとえ放課後の居残り授業という形であっても、何かの
手応えを感じてくれたのだ。


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「そうか。なら、もう少し先生と一緒にがんばってみるか。」
「うん…!」

 それに、応えるのが先生というものだ。
 もちろん、他の子たちへの指導を決して疎かにはしていない。
 さらにその上で、放課後に彼女のためにさらに時間を割くのだ。
 それは確かに疲れることではある。しかし、若い情熱に満ちた私には、それが
苦痛になることはなかった。
 こうして、私と恵美の二人だけの放課後授業は続いていくのだった……。



 恵美の成績は、元々が最低だっただけに、その向上は目に見えて顕著だった。
 恵美もそれが実感できて、放課後の授業がこの上なく楽しそうだった。

 そんな彼女を見ていると、もちろん自分だって嬉しくなる。
 彼女の両親も、諦めきっていた娘の成績の向上に歓喜しているらしかった。
 誰も、何も失わず悲しまない。
 私も恵美も、その親も三方が大喜び。クラスの平均点も上がって、何も問題な
どあるわけもなかった。
 恵美も、成績だけでなく、……うまく言えないのだが、これまで以上に朗らかに
なった気がする。

 以前の恵美も、確かに笑顔を絶やさない子ではあった。
 しかしそれは、自分が落ち零れであることを認めたくない、現実逃避の心が浮
かべる笑みだったのだ。


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 今の彼女の笑みは違う。自分に自信を持ち、日々の学校生活を楽しいと実感し
始めたことによる、心の底からの笑みだった。

 やはり、私は間違っていなかった。
 これこそが、私の目指した理想の教師なのだ。
 今日も頑張ろう。放課後授業は今や、自分にとってもっとも、仕事にやりがいを
感じる大切な時間だった。

「先生。ちょっとお茶でも如何ですか?」
 唐突に私の肩が叩かれる。
 教頭だ。
 ……この人は、つくづく気配や足音がしない。
 なのでいつの間にか背後を取られていて、いつも唐突に肩を叩かれる。
 エリート街道を突き進んできた教頭は、異例の若さでその地位に上り詰めた。
 それに加え、元々若く見える性分なのか、ぱっと見ただけでは、私よりちょっと
年上の先輩程度にさえ見えるのだ。
 そんな教頭の趣味は、紅茶。
 職員室に私物の高価な紅茶の道具を持ち込み、時折、その腕前を披露していた。

「ありがとうございます。ぜひ、いただきます。」
「どうぞどうぞ、こちらへ。今日は良い茶葉が入りましてね……。」
 我々教員にとっては、教頭は生殺与奪を全て握る、侮り難い上司だ。
 実際、その紅茶のお手並みは大したものだし、断ることなど出来ない。

 私は教頭に誘われるまま、校長室へ入った。


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 校長室の中は、紅茶の良い香りで充満していた。
 校長は公務多忙で、校長室を空けていることが多い。
 その為、校長室は半ば、教頭の副校長室も兼ねていた。
 彼の、品の良いアンティークな紅茶道具は、校長室の厳かさの中に、一輪の彩
りを添えている。

「どうぞ、お掛け下さい。……先生は紅茶派ですか? それともコーヒー派ですか?」
 上司に紅茶を出されながら、コーヒー派だとずけずけと言える人間になってみ
たいものだ。
 私は苦笑いしながら、紅茶も大好きですと答える。
 しばしの間、私たちは静寂の校長室で、濃厚な紅茶の香りに包まれながらくつ
ろいだ。

「ところで先生。……最近は、熱心な指導をされているそうですねぇ。」
「……氷室恵美のことですか?」

 すぐにそうだと直感する。
 はぐらかしても仕方がないと思うし、やましいことをしているつもりもないので、
こちらからあっさりと認めることにする。
 ……隠していたつもりもないが、大々的にやっていたつもりもない。
 教頭め、一体どこで聞きつけたやら。

「くっくっく。気にしないことです。」
「……誤解しないで下さい。別にやましいことをしているわけではありません。」


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「存じていますよ。熱心な指導の甲斐あって、成績も非常に向上しているとか。」
 教頭は、素晴らしいことですと付け加え、……小奇麗な仕草でティーカップを傾
ける。
「何か問題でも……?」

 焦らされるのは好きではない。
 男と二人きりで紅茶を飲む趣味でもない限り、教頭が私を校長室へ連れ込む
理由が、他に思いつかない。
 確かに、一見すると自分がしていることは、特定の女子生徒と、毎日二人で密
会をしているようなものだ。
(教室で堂々と勉強をしているのだから、密会と言われるのも心外だが)
 PTAなどの、面倒な連中の耳に届いたなら、確かに好ましいことではないだろう。

「まぁ、……お察しの通りです。私はもちろん、先生を信じていますからね。不道徳
な事態に陥ることなど、あるわけがないと確信しておりますよ。」
「……ありがとうございます。」
「子供も色々なタイプがいます。懇切丁寧に時間を掛けねばならない子も、時に
はいるものです。」
「そういう子に、きめ細かにフォローすることこそ、私は担任の役目だと思っています。」
「素晴らしいですね。教師の鑑です。」
「氷室恵美は、決して愚かな子ではありません。教えられれば、きっちりと効果が
出せる子なんです。ただ、物事の理解というか、吸収が人より少し時間が掛か
る。……だからこそっ、」
「誤解なさらないように。私は咎めているわけではありませんよ。」
「…………………。」


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 咎めるつもりがないのなら、呼びつけるわけもない。
 個人的には良いと思っているが、体裁があるので渋々……、とでも言うつもり
だろうか。

「そんなところです。私たち教師は、子供ひとりひとりに合った指導をして然る
べきです。その結果、傍目には特定の子に贔屓をしているようにみられてしま
う場合もあるでしょう。」
「氷室恵美に贔屓をしているわけではありません。」
「彼女がいわゆる落ち零れであることは明白でした。そして、先生の個人指導
のお陰で、成績が向上し、勉強のコツも少なからず覚えた。……素晴らしいこと
です。ならば、そこで一度、手を離して。一度、彼女の様子を見てみるのも良い
のではありませんか?」

 教頭の言いたいのは、つまりこういうことだ。
 氷室恵美がクラス一の落ち零れであることは明白だったので、個人指導の意
義があったのは間違いない。
 しかし、一定の成果が出た今、その役目は終えるべきではないのか、ということだ。

 ……つまるところ、これまでのことは見逃すから、もう個人授業はやめろ、という
ことに他ならない。
「彼女は、ようやく自信を取り戻し、学校の楽しさを実感し始めたんです。例える
なら、ようやく立ち上がったばかりの赤ん坊みたいなものです。……私が手を貸
してあげるから、絶対に転ばないよと。そう勇気付けて、彼女はようやく立ち上
がったばかりなんです。それをここで、ぱっと手を離すような真似をしたらどう
なります?!」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「……言い分はごもっともです。では、彼女が自分だけの足で立てるようになる
よう、そういうご指導をしてはいただけませんか。」
「やがてはそうするつもりです。」
「そうですか。そのつもりがあるならば、今はこれ以上、何も言わないこととしま
しょう。………ですが、最後に一言だけ。」

 本音は追伸に書け、というのが日本のビジネスマナーだ。
 その一言が、教頭が一番言いたいことだろう。

「子供ひとりひとりに合った、細やかな指導は実に素晴らしいこととは思います。
ですが、クラス担任は、特定の生徒の保護者ではありません。過ぎた個人指
導は、例えその気がなくても、贔屓と言われても仕方がありませんよ。」
「…………………………。」
「あなたは良い先生です。生徒ひとりひとりのことを、心から案じている若く素晴
らしい先生です。しかし、それが過ぎて。クラス数十人を預かる、担任であると
の立場を、決して忘れないようにして下さい。私からの話は以上です。」
「………………………。」




「……先生ぇ。どうしたの~……?」
「ん? あぁ、すまないね。ぼうっとしていた。」
「今日の先生ぇ、……何だか機嫌悪そう…。……私がバカだから、愛想が尽き
ちゃった……?」

 大勢の友人たちにそうされてきたから、……この気の毒な少女は、そういう予
兆に敏感になってしまったのだろう。


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 ……もちろん、恵美のことに愛想が尽きたなんてことはない。
 むしろ逆だ。
 ようやく勉強の楽しさを覚えた彼女に、ますます力添えが必要な時なんだ。

 ………なのに教頭に不愉快なことを言われ……。
 それが表情に出てしまったらしい。
 恵美を怖がらせてしまっていたことに気付き、私は表情を明るくするよう努める。

「恵美くんは、………もう一人でも勉強できるか?」
「……………え……。」
 きょとんと、というものじゃない。恵美の顔には、自分がまた見捨てられるという
恐怖が、ありありと浮かんでいた。
 ……そうとも。やっぱり彼女には、まだまだ保護が必要なんだ。
 ここで彼女を見捨てたらどうなる?
 私を信じて、一緒にここまでやってきたのに。
 今度こそ恵美は、硬い殻の中に閉じ篭ってしまうに違いない。

「……先生ぇ……。……私のこと、……嫌いになった……?」
 そう言って、私を見上げる彼女の瞳は、まさに捨てられた子犬のそれだ。
 ………………………。

「嫌いになんか、なるもんか。」
「本当……?」
「あぁ、本当さ。先生と一緒に頑張って、ここまで出来るようになったんじゃない
か。なら、これからも先生と一緒に頑張っていこう。そしてテストで、クラスのみん
ながあっと驚くくらいの点を取って見返してやろう。」


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「………いい点が取れるようになったら、………先生、いなくなっちゃうの……?」
「いなくならないよ。」
「……いい点が取れるようになっても、……ずっと一緒にいてくれる……?」
「………………………。」
「……友達も、クラスメートも……。……お父さんもお母さんも……、みんなみんな、
……私のこと、愛想を尽かしちゃうの……。私のこと、……トロい、……物分りが悪
いって言って……。……みんなみんな、……最初は仲良くしてくれるのに、………
だんだん離れていってしまうの………。……だから先生も……、今は仲良くして
くれるけれど……、……きっと愛想を尽かして………。」
「そんなことあるものか。」

 私はドンと自分の胸を叩いた。
 やはり、私は間違っていない。
 きっとこれは、神様の与えた使命なのだ。
 氷室恵美という少女を救えという、思し召しなのだ。
 だから私をこのクラスの担任にしたんだ。彼女を私のクラスの子にしたんだ。
 教頭がごちゃごちゃ言ってきたのは、私たちの放課後授業のことを、いやらしい
偏見の目で見る誰かが告げ口したのに違いあるまい。
 何もやましいことなんかしていない。
 むしろこれは、教師として胸を張るべきことなんだ。

 ……クラス数十人を預かる、担任としての立場を忘れるな?
 それはどういう意味だって言うんだ。
 上辺だけの公平で彼らを扱って、彼女のような、助けのいる子を見て見ぬふり
をしろというのか?


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「約束するよ。恵美くん。…絶対に先生は、恵美くんを見捨てたりなんかしないよ。」
「……じゃあ、……ずっと、………ずっと、私と一緒に、……こうして、……放課後に
お勉強してくれる………?」
「ああ。約束するよ。」

 その答えを聞いた途端、……恵美は両目からぼろぼろと、熱い大粒の涙を零した。
 ……恵美にとって、人との出会いは全て恐怖だったのだ。
 おっとりしていて、容姿も決して悪くない彼女は、初対面では好意をもたれや
すく、友達になろうと近付いてくる人間も、もちろんいただろう。
 しかし、付き合い始めると、次第にそのスローペースぶりに愛想を尽かし、……
やがては離れていってしまう。
 私に対しても、心を開きつつも、……それでもいつか愛想を尽かし、大勢の友
人たちがそうであったように、離れていってしまうに違いないと怯えていたのだ。

 ………こんなにも気の毒な少女を前に、力強く胸を叩けなくて、どうして教師だ
と名乗れるというのか、男だと名乗れるというのか。
 私はもう一度、力強く自分の胸を叩く。

「約束するよ。ずっと恵美くんの側にいる。これからも、一緒に頑張っていこう。な?」
「先生ぇ………。………先生ぇ……!!」
 恵美が私の胸に飛び込んでくる。
 そして顔を埋めて、わんわんと泣いた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ……担任は、特定生徒の保護者ではないと教頭は言った。
 なるほど、確かに理屈ではその通りだと思う。
 しかし、自分は教師なんだ。子供たちを、より良い未来に導きたくて、この職を
選んだんだ。
 その情熱に、ここまでというボーダーラインなどあるべきなのか…?
 そんなわけ、あるものか。
 必要だと求められたなら、どこまでも手を差し伸べる。それが教師というものだ。
 彼女が、もう手助けは不要だと口にしたなら、その時には喜んで手を引こう。

 しかし、そうならない限り、私は絶対に氷室恵美をひとりぼっちにしたりしない。
 彼女が私を力強く抱き締めるように、……私も彼女を力強く抱き締め、その決
意を示すのだった……。



 私たちの放課後授業はその後、場所を変えることとなった。
 仮にも一度、教頭から警告を受けているのだ。表向きは、もう終わってしまった
ようにした方が良い。
 幸いなことに、ひと気のない空き教室だっていくつもある。
 例えばこの社会科資料室などは、今となっては訪れる者もいない、忘れられた
部屋だ。
 私たちは放課後授業の場所をそこに移し、それからもずっと放課後の逢瀬を
続けていた。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「先生ぇ。ほら見て。今日はおやつを持ってきたの。」
 彼女がランドセルから小さなタッパーを取り出す。
 それは、市販のビスケットにチョコレートソースを掛けてスライスアーモンドを
載せただけの簡単なものだったが、彼女なりの真心の篭った手作りだった。
「へえ、これはすごいな。恵美くんが作ったのか。」
「うん。先生ぇに喜んでもらいたくて~……。……えへ。」
 彼女ははにかむように笑う。
 狭い資料室の中は、束の間、埃の臭いを忘れ、チョコレートの甘い匂いで満たさ
れた……。

「お。昨日、言ったところを、ちゃんと予習してきたな。偉いぞ。」
「えへへ……。先生ぇに褒めてもらえると思って。がんばった~☆」
 恵美の成績は、目に見えて向上している。
 先日は、彼女の親から菓子折りをもらったくらいだ。
 成績とともに彼女も自信をつけ、ますますに明るくなった。
 ……彼女はもう充分、クラスの平均レベルに追い付いている。
 仮に自分が交通事故などで死んでしまったとしても、もう彼女は大丈夫だろう。
 もし、彼女がもう放課後授業は必要ないと言ってくれたなら。
私はそれを歓迎するつもりだ。

 ……寂しくはない。本来の担任教師としての仕事に、より専念できるようになる
だけの話だ。
 しかしこうして、………校内の誰からも忘れ去られた秘密の場所で、二人きりで
過ごすこんな時間に、温かみを感じていたのは確かだ。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「私ね。……大きくなったら、先生ぇのお嫁さんになりたい……。えへへ………。」
 上機嫌な彼女は時折、そんな戯れを口にすることもある。
 だから私も、戯れに言ってやるのだ。
「いいとも。ただし、大きくなったらだぞ。」
「うんっ。大きくなったら、絶対だよ…! 絶対だからね、絶対、絶対っ。」
「あぁ、絶対だよ。その為には、今日もしっかりお勉強をしないとな。」
「やだやだぁ。絶対にお嫁さんにしてくれるって、約束してくれなきゃ嫌だぁ~!」
「……参ったな。じゃあ、これからも頑張ってお勉強をすると約束してくれたらな。」
「うんっ。約束するから先生も約束してっ。」
「わかったよ。……じゃあ、大きくなったら結婚してあげるよ。」
「やったぁ~っ! やったやったやった…!!」
 無邪気に喜ぶ少女の姿は、婚約をせがむには、まだまだ幼く見えた。
 そう。年相応に、幼く見えた……。

「じゃあ先生ぇ。……………して………?」
「してって、………何を。」
「……先生ぇと、恵美はぁ。………結婚の約束をしたんだからぁ。………その証を、
…………して………?」

 彼女の瞳が、甘く潤む。
 唇がぷっくりと、……さくらんぼ色に輝いてさえ見えた。
 ……直前まで、幼いと見下していたはずの少女なのに、………ぞくりとするほどに、
妖艶。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 その瞬間、思った。
 ……女はみんな、恋を知って、……小悪魔になるんだ……。
 狭い資料室の中は、甘いチョコレートの匂いに混じって、………脳を蕩けさせる
ような、……甘い甘い、……何かの匂いに満たされていた……。

 ……………………甘……い……。
 それを蕩けるようで、糸を引くようで。
 ……それでいて、離せばすぐに蒸発してなくなってしまうかのように儚くて。
 少女の唇の甘さが、……脳の中に流れ込んで。
 ……じゅわっと、……焼く。
 永遠に消えない、爛れた火傷の跡となって。

「………えへ、……えへへへへ……。」
「……恵…美……。」
「勉強……、しよ、……先生ぇ。」
「あ、……ああ…………。」
「今日も、………色々、…………教えてね……。」

 私の頭の中はもう、……彼女のことで、いっぱいだった。
 ……教師と教え子の関係を、超えてしまいたい感情で、……胸が疼く。
 それが不道徳なことであり、……仮にも聖職と呼ばれる教師として許されざ
るものであることもわかっている。
 だが、……彼女のことを見捨てることが出来ない。
 彼女は可哀想な子なんだ。今になって私に見放されたら、彼女はもう、永遠に
微笑を見せることはなくなるだろう。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ……いやいやっ。そんな自己欺瞞はもういいんだっ。
 私は多分、本気で、………氷室恵美に、……恋をし始めている………。

 ………教え子と結婚した教師が、存在しないわけじゃない。
 彼女が成人した時に、なおも同じ気持ちを持ち続けていたなら、……その時、
改めて大人の付き合いをすればいい。
 大事なのは、師弟関係である内に、その一線を超えないこと………。
 ……頭の中を、……あの、……甘く蕩けて、……熱い熱い……、じゅわっとした感
覚が広がる……。

 恵美の、小さく、……ぷっくりとしていて、……瑞々しくて、……甘い、…………唇が、
…………瞼に焼き付いて消えないんだ……。
 私はその晩、……布団の中で、ずっとずっと、………氷室恵美のことを考えて、
悶々としていた。
 学生時代に恋の真似事をしたこともあったが、こんな気持ちにはならなかった。

 ……なら、これは本当の恋なのか。
 相手は子供だぞ、未成年だぞ……。二次性徴だって始まってるかどうかわから
ないってのに……。いやいや、そんなのは問題じゃないだろ、問題じゃないだろッ……。

 ………………………………。


 しかし、私が苦しんだ夜は、その晩だけだった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ……不道徳な妄想で頭を満たした私に対する、それは天罰なのだと思った。
 恵美が、トラックにはねられたのだ。
 信号が何色だったのか、過失がどちらにあったのかはわからないし、どうでもいい。
 恵美は何メートルも吹き飛ばされた。多臓器破裂で昏睡状態。
 今夜が無理ならば、覚悟をしてほしいと医師は宣告した。

 病院へ飛んでいったが、もちろん、面会は謝絶。
 仮に会えたとしても、彼女は目を覚ますことも出来ないだろう。
 私は廊下で、涙ぐむご両親を励ますことしか出来なかった。
 その後、報告の為、学校に戻り、………その日の放課後に使う予定だった、彼女
専用のプリントを掻き毟り、……涙した。



「先生。そう気を落とされずに。もう、こんな時間ですよ。」
 もうすっかり深夜だった。
 帰り支度をしている教頭に声を掛けられる。

「気にしないことです。」
「……そういうわけには行きません。……恵美は、………氷室恵美は、私の大切
な教え子なのですから。」
「私の大切な教え子のひとり、ですよ。」
「……………………。」
「お気持ちはわかりますよ。でも、忘れないことです。……あなたは氷室恵美だけ
の担任ではないのですよ。クラス全員の担任です。」
「だから、悲しむなと仰るのですかッ。」


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「……批判を恐れずに申し上げるなら、そうなります。」
 涼しげに、教頭はそう言い放つ。
「しかしッ、私は教師である以前に人間ですッ。」
「いいえ、違いますよ。教師であるならば、人間ではないのです。」
「え?」
「教師とは、クラスの子供たちを公平に見るためには、時に冷酷さも求められる
存在なのです。……はっきり言いましょう。教師とは、人ならざる存在なのですよ。
……あなたも、……無論、私もです。」
 謎めいたことを言って、教頭は、くっくっくと笑う。

「悲しみたい気持ちはわかります。……ですが、あなたは氷室恵美と同時に、数
十人の担任であることも、忘れないで下さい。」
「……………………………。」
「あなたは学校を休んで、氷室恵美に付きっ切りになりたいと考えておられるの
でしょう? ……それは、彼女の両親や友人ならば当然の、人間らしい気持ちです。
……しかし、あなたは人間ではありません。人ならざる存在、……教師なのです。」
「……きょ、………教師…………。」
「今夜はいくら泣いて下さっても結構です。しかしそれでもあなたは、明日は決め
られた時間に登校し、決められた時間までの授業をこなし、昨日までと何ら変
わることのない指導をする義務があるのです。………それが出来ないなら、あ
なたは教師ではないということになります。」
「それが……教師なら、…………私は教師なんかになりたくないですッ。……
私は………、人間だッ……!」
「………ふ。」


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 教頭は姿を消し、夜の学校には私ひとりが残った。
 ……恵美の手術はうまくいくだろうか。
 恵美の体力は、健康は、事故は、怪我は………。
 頭の中をぐるぐると様々なものが駆け巡る。
 なのに、恵美のためにしてやれることが、何もない。
 私には、彼女が峠を越すまで、付き添ってやることさえ許されていないのだ。
 恵美は、……私の婚約者なのに!
 私は人ならざる存在、………教師だから!

「私が教師で、人ならざる存在だというのなら…!! 人ならざる存在よッ、誰か俺
の呼び掛けに応えてくれッ!!」
 私はそう大声で叫びながら、真っ暗な夜の廊下を彷徨う。
「学校に、怪談や妖怪の一つや二つ、あって当然だろう?! そしてそれは私の仲
間のはずだ! ならばお願いだ!! 私の呼び掛けに応えてくれ!! 頼みがあるんだッ!
恵美の、………恵美の命を救ってくれ!! 後生だ……!!」

 そう叫びながら、夜の廊下を、教室を階段を、……当てもなく彷徨う。
 校内のどこかに潜んでいる妖怪に、聞いてもらいたくて。
 でも、………誰も応えてはくれなかった。
 階段の踊り場で、………壁に掛けられた大きな鏡にもたれかかり、拳で叩く。
 もう言葉も出ない。
 ただただ、……恵美のために今、何も出来ない自分が情けなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「誰でもいいッ、恵美を、……恵美の命を救ってくれ……!! 救ってくれるなら、何
でもやるッ、何でもくれてやる!! そうさ、それこそ、俺の魂だってくれてやるさッ!
だから誰か来てくれッ、俺の話を聞いてくれ…!!!」


――いいぜ。…俺様が、話を聞いてやるぜ……。


 確かに聞こえた。
暗闇の中に木霊するように、……どこからともなく、その声が聞こえた。
「だ、…………誰だ………。……誰なんだ……?!」
「……いいぜ。名乗ってやる。」
「?! あッ、……………………、」

 今度の声は、突然、耳元から聞こえた。
 驚き、寄りかかっていた大鏡から飛び退く。
 まるで、……その鏡の、すぐ向こうから声がしたように聞こえたからだ。
 ……踊り場に差し込む月明かりにほのかに照らされる大鏡。
 そこには、………無様に尻餅をつく自分を見下ろす、………不思議な人影が
映っていた。
 声は青年のように聞こえた。……少なくとも、この学校の生徒ではない。

「……あ、………あんたは…………。」
「俺様は学校妖怪、序列第5位。人呼んで“鏡のキョウ”よ……。」
「鏡の、……妖怪………?」


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「人の世と鏡に映る世の、異なる世界の接点を司りし妖怪が俺様よ。……まぁ、
どうでもいいだろう。お前があまりにうるせぇから、こうして俺が姿を現してやっ
たわけだ。」
「あ、……ありがたい……! あんたには、……恵美の命は救えるのか…!!」
「出来なきゃ姿は現さねぇ。ひっひっひ……。」
「………な、なら頼むっ。氷室恵美を救ってくれ…! あの子の命を救ってやってくれ…!!」
「やれねぇことはないが、……へへっ、わかってんだろ。」
「……わかってるだろう、……とは……。」
「俺様は善良な妖怪じゃねぇ。人間なんざ大ッ嫌いだぜ。……だから願いを叶
えてやる代わりに、代償をいただくぜ。」
「だ、……代償……。それは何だ?! 何でも払うとも…!!」

 恵美の命を救ってくれるなら、どんな支払いだって安い物だ。
 私は、恵美だけの担任なんた。
 恵美が救えるならば、それ以外の何を失おうとも構わないッ。

「ひっひっひ……。大した覚悟だぜ。……いいだろう。俺たち妖怪は魂が大好物だ。
人間の魂が大好きなんだ。」
「……私の、……魂を寄越せというのか。」
「あぁ、そうだ。お前の魂の半分をいただこう。」
「……それを渡せば、……恵美の命は………。」
「あぁ。魂の半分を寄越すなんて、ごっそりたっぷり、景気のいいこったァ! それだけ
の魂がありゃ、妖力をたっぷり生み出すことが出来るぜ。女の命を繋ぎ止めるくら
い、ビフォアー、ブレックファーストってもんだぜ、ひっひっひっひっひぃ!」


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「い、いいだろう。契約は成立だ……! さぁ、私の魂の半分を、食らってくれ…!!」
「じゃあ、いただくぜ。ひっひひひひひ!! おりゃあああぁああッ!!!」

 雷鳴が全身を駆け抜けるような衝撃。



 ……私はしばらくの間、そこで失神していたようだった。
 気付けば、何事もなかったかのように、辺りは静まり返っていた。
 しかし、………胸の中が、わずかに空洞になったような感触だった。
 まるで、握り拳一つ分、胸の中に空洞が出来たかのよう。
 恐らく、……今のは夢ではない。
 あの妖怪は本当に、………私の魂の半分を食らったに違いない……。

 しかし、その違和感以外に、変わった気はしない。
 体は自由に動くし、何かの不自由も感じない。
 想像してよりもはるかに、………安い支払いだったようだ。


……もっとこう、……廃人寸前にされるとか、寝たきりにされるとか、そのくらい
恐ろしいことを想像していた。

 …………でも、これで支払いはした。
 あとは、………恵美の手術の成功を祈るだけだ………。


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 翌日。……私は、急な発熱で休むと、半ばバレバレの嘘をついて学校を休んだ。

 ……クラスの担任であることを放棄し、……氷室恵美だけの担任であること
を自覚しながら。
 そして恵美の両親に電話し、彼女の容態を聞いた。
 …………手術は奇跡的成功を収め、……恵美は医師も驚くほどの速度で、快
方に向かっているという……。




 それからしばらくして。
 恵美に面会が出来るようになった。
 恵美の姿はまだまだ痛々しいものだったが、もう命に別状はないという。


「…………先生ぇ。……嬉しい。……来てくれたんだね……。」
「もちろんだとも。……辛い手術に、よく耐えたな……。恵美。」
「ずっと寝てたから、……あまりよく覚えてない~……。」

 舌をぺろりと見せて照れ笑いする。
 彼女自身は、もう横になっていることに飽き飽きしているようだった。


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「お母さんから聞いたよ。……先生ぇ、毎日、お見舞いに来てくれたんだってね。
……ありがとぅ……。」
「……当然だよ。……恵美は、先生のお嫁さんなんだろ?」
「……………うん。」
「お嫁さんなら、……そのお見舞いに来るのは、夫として当然じゃないか。」
「……そうだねぇ。……えへへ………。」

 病室には、……誰もいない。
 自分と恵美以外に、……今は、誰もいない……。
 ……恵美の唇が、………艶やかに、……ふるりと震えた気がした。
 その瑞々しさに、思わず喉を鳴らさずにはいられなかった……。

「どうしたの? 金森先生ぇ。」
「ん、………。………な、………何でもないよ、………恵美……。」


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 ひっひっひっひ……。
 魂を半分、確かにいただいたぜ。
 お前の魂の、善悪の半分、善側をそっくりそのままな。
 ……教師ってのは、クラスの子、全員を等しく愛さなきゃいけねぇんだぜ…?
 それを忘れちまう悪ぃ教師は、もはや教師じゃねぇもんなぁ?
 ひっひっひっひ…………。


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                         彼岸花の咲く夜に
                         人ならざる教師
                         2011年11月20日
                         ひぐらしのつどい7

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